中学校にあがると、授業でノートをしっかり書き写す能力が、自然に、かつ、見えざる強制力によって、身に付いた。板書をする教師のチョークの動きと、シャープペンは、輪唱するように動き、ノートにはシャープペンの他に、様々な色のカラーペンが走り回った。

ノートを取るということは、ただ書いているものを書き写すことに非ず。要点には赤でマルを、文章中でテストに出そうな範囲には緑の波線を、時には青で下線を引くことが大事なのだ。そしてそれはシャープペンだけでは表現できない世界である。モノクロテレビでは、花の美しさを感じ取れないように。ノートを取るのにカラーペンがないというのは、戦争をするのに武器がないのに等しかった。

当時、カラーペンはステータスだった。カラーペンをどれだけ持っているかによって、ノートの質が変わらんと言わんばかりにカラーペンを収集していた時期であった。赤、青、緑はもちろん、橙、紫、茶。いま思うと、色と名の付くものならなんでもよかったのかもしれない。私が持っていたカラーペンの中でも、一番存在感を放っていたのは24色ペンだった。一つで24色である。一時間ごとに色を変えても一日中使えるのだ。近所の文房具屋で初めて目にしたときは、とんでもない財宝を探し当てたような、別次元の何かに触れたような心地だった。みんなが筆箱から目的の色のペンをせかせかと探している中で、私は早々に目的の色に切り替えてノートを作っていくことができる。つまるところ、この瞬間私は、ノートを取るという行為においてヒエラルキーの頂点に登り詰めたのである。

だが、一つのペンに24色が同居するのであるから、そのペンの太さといったら尋常ではない。そのくせ、ペン先は細かった。実際手に持って使ってみると、いまどこにペン先があるのか見えないのである。至極書きづらい。しかし、所有した手前、見栄を張らなければ格好が付かない。使えないと悟られてはまずいのである。私は使い道が到底ないと思われるような色も、この色を使いたかったんだ、とばかりに使った。白いノートに黄色は、この上なく相性が悪かったが、人類の叡智を総動員した万能カラーペンを演出するためには仕方のないことだった。

このペンで私のノートはいままで以上のすばらしい物に生まれ変わったかというと、そう甘くなかった。24種類もの色が走り回ったノートには、もはや混沌しかなく、ノートを使うためにペンがあるのか、ペンを使うためにノートがあるのか、目的と手段まで滅茶苦茶になってしまった。

その後、24色ペンは、よく使う赤のインクが切れた時点で、筆箱に入ることはなくなったのだが、なんだか清々したのを覚えている。そのころの教訓として、『なんでもできる』ということは、『なんにもできない』ことよりタチが悪いのだ。ということだった。

『それだけしかできない』というのは、それをするときは、一心不乱に何も考えずにできるということの裏返しでもある。単機能は、人類が幾度となく成功を積み上げ、性能を積み重ねた先にあるブレイクスルーなのだ。

だから私は、ポメラが喉から手が出るほど欲しいのである。

(了)

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